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心療内科に行った。
7月に復帰するかは今度決めることとなった。 心療内科に行ったときは必ず課長と会うことにしている。 経過報告のようなもの。 いつも私は何も話さず、課長の話を聞いているだけだが、今日は割りと私も話をしたと思う。 はっきりとは言わなかったが、職場に疑問を感じていて転職しようかと思っていることを伝えたつもり。 私の興味関心は「職場の同世代の人たちは何を考えて働いているのか」ということに注がれている。 職場の多くの人にとって今の仕事がやりたかった仕事とは思えない。 多くの人が待遇目当てだと思う。 思ったとおりの待遇を得られて満足なのだろうか。 他にやりたい仕事があったはず。 こんな仕事がやりたくて今まで生きてきたわけではないはず。 皆、夢を諦めてしまったのだろうか。 どう気持ちの整理をつけているのか知りたい。 生き方として、仕事に楽しさを求めないで仕事以外に楽しさを求めるという考えがある。 これは仕事は生活費を稼ぐと割り切ることだろうか。 1日の大半を仕事で過ごすわけだから、その仕事が苦痛なものだと苦痛の1日になってしまうと思う。 仕事で10の苦痛を味わったとして、フリーの時間で10以上の喜びが感じられれば楽しい1日ということかもしれないが、仕事で疲れた状態で10以上の喜びを手にするのは難しい。 私という人間はトータルで人生を捉えることができない人間だ。 どういうことかというと、苦痛を他の喜びで補うことができないということ。 例えば学校のクラスにいることが苦痛であっても、部活に喜びが感じられるとか、塾に行くのが楽しいから幸せというように、総合的にはとらえられない。 -10+20=10の生き方より2+3=5の生き方を望む。 完全主義のせいか、嫌なことがあるとそこに拘ってしまい全てがマイナスになってしまう。 加算減算というよりは乗法の生き方なのかもしれない。 特に1日のメインである仕事に苦痛を感じてしまうようだとかなりマイナスが大きくなってしまう。 先ほどの学生の例でいうなら、1日の中心である学校のクラスでの時間が苦痛なものだと、いくら外部で喜びが感じられても辛いのではないかということ。 学校のクラスは自分の意思ではどうにもならないので、耐えるより仕方ないのかもしれない。 だが、仕事は本人の意思で選べるわけだから、自分に合う仕事を求めることは可能だ。 将来の夢など遣り甲斐などといって仕事というものを人生において大切な位置付けにしているのだから、より良いものを求めるのが当然のことに思える。 仕事というすごく大きな存在を自分の意思で選べるのだから、もっと貪欲に選ぶべきだし、選ばないとおかしいようにも思える。 選ばなくてもいいという状態はどういうことだろうか。 仕事に満足しているということだろう。 仕事に満足していないが、選ばないということは有り得るのか。 選ばないというより選ぶ必要性がないということもある。 仕事以外のことで十分に喜びが感じられるなら、仕事は我慢できるのかもしれない。 あとは選びたいけど、選べないということもあるかもしれない。 家庭を守らなければならないとか。 家庭を持ったら個人の願望よりは家族を優先すべきだと思うが、若い独身の人はよっぽどの事情がない限り、選べないということはないはず。 選ばないということは、もしかしたら仕事が生活の中心ということではないことなのかもしれない。 私は仕事は生活の中心と思っているが、仕事が中心ではないと思えるのなら、外部の喜びで満足できるのかもしれない。 だが、小さい頃からやたらと「なりたい職業」などと意識付けられてきたので、仕事が人生に占める割合が高いと思ってしまう。 仕事よりもっと大きな存在が見つかったとき、それから得られる喜びが仕事で味わう苦痛を上回るなら、選ばないという行動をとるのかもしれない。 自分がトータルで人生を考えられないせいか、本当ならトータルで考えられるほうがいいように思える。 そういうことは価値観の問題なのかもしれないが、トータルで考えられたほうがうまい生き方だと思う。 嫌なことは必ずある。 その嫌なことを良くしようとすることは大切なことだが、嫌なことがあるからといって人生を悲観してはいけない。 私もある程度嫌なことは受け入れるつもりでいるが、どうも仕事の絶対値は大きいように思えてならない。 影響力が大きい仕事はなんとしてでもプラス、せめてマイナスを小さくしたいと思う。 仕事でのマイナスを他のプラスでカバーすることはなかなか難しいことだと思ってしまう。 私はきっと都合のいいように思い込んでいるところがあると思う。 生き甲斐が感じられない原因は仕事にあると思い込んでいる。 仕事で何かしらプラスの感情を得られることができれば、人生が変ると思っている。 そう信じている。 同僚が仕事を続けられることに疑問を感じる。 そう感じるのは「今の仕事は多くの人にとって望んではいなかったもの」という前提がある。 これも私の思い込みなのかもしれないが、どう考えても私の職場の仕事をやりたくてこの職を選んだ人はいないと思う。 望んで入ったわけではないけど結果的に良かったという人もいるだろうが、結果的に良かったと思えるような仕事には思えない。 この部分はかなり私の思い込みかもしれないが、単なる処理作業に近い仕事なので喜びが感じられる仕事ではない。 他の人が何を考えて仕事しているのかを考えるとわけが分からなくなる。 「たった一度の人生なのだから」という言葉、教えがあるが、これが私を大いに苦しめる。 こんな言葉誰しもが教えられて知っているが、それなら何故、同僚は転職しないのか。 仮に仕事以外のこと十分に幸せを感じていても、更なる幸福を求めて何故転職しないのか。 変えようと思えば変えられる状態なのに、何故変えないのか。 私はどちらかというと「たった一度の人生」なんてほとんど意識して生きていなかったが、こんな私でさえ妥協して生きたり、夢を諦めて生きることにすごく抵抗を感じる。 こんな言葉知らなかったらよかったのにと思う。 きっと誰かに言われなかったら、自分の中で「たった一度の人生なのだから自分の望むように生きてみよう」などと私は思わなかったはずだ。 何故こんな人生を苦しめる言葉があるのか。 こんな言葉なかったら疑問を持たないで済んだはず。 生き方などの言葉は道を示しているようで、かえって人を悩ましていることもある。 一体どうしてこんな言葉があるのか。 自分らしく生きた人が残した言葉と言うよりは、後悔の気持ちから生まれた言葉に思える。 自分のように後悔しないようにと後世に伝えたかったのだろう。 こんな言葉言われたら「では、ご自身はどうなのですか?」と言い返したくなる。 都合よく転職を捉えているような気がするが、この言葉を想うと転職しないでいたら後悔してしまうように思える。 何をもってして後悔と思うのか、どこで線引きするのかは個人の価値観によるものだが、このままでは後悔すると思ってしまうのなら転職すべきなのか。 転職しない同僚は後悔しないと思っているということなのか。 この言葉が私を妙に貪欲にさせ、恐怖させる。 人間何かを突き詰めて考えたら、死ぬより仕方ないように思える。 そうなって当然なのだと思う。 真面目に真剣に考えたら、自己肯定なんてできるわけがない。 自分の存在を自分で認めることなど不可能。 自己否定の気持ちを思考によって消し去ることはできない。 自分の生きている意味、存在価値を自己が見出すのは無理だと今は思っている。 だからこそ人間なのだと思う。 人と人との間に棲む者なのだから、他人がいて初めて自己の存在が認められるのだと思う。 もしこの世に人一人なら自分の存在価値など見出せない。 「我思う、故に我あり」というのは存在の認識であって、生きている価値を感じるものではない。 人間は他人がいて、その他人に認められること、受け入れられることで自分の存在意義を見出す。 世界平和なんかを考えると私は激しく自己否定してしまい、自分の存在価値を疑ってしまう。 世界平和を真剣に考えたら、自分なんかは存在しないほうが世の中のためになるという結論。 自分が存在することによってかなり他人を不幸に陥れていると思わされる。 私がいることでのプラスの影響より、マイナスの影響のほうが大きいと考える。 私がいることで確実に難民から食料を奪っていることになり、私がいないことで確実に私の分の食料が他人にいく。 他人にいくのは確実で、必ずしも貧しい人のところに私の分の食料がいくとは限らないが、私が消費しない分、難民にいく可能性は確実に高まる。 自分が存在しているだけで確実に世の中に負担をかけている部分がある。 そのかけている負担以上の働きをこの地球上で私がすればいいのだが、それはまさしく奉仕によってこそ実現できるものだと思う。 ボランティアで無償の労働力の提供こそ、真に人の役に立つ行為であると考える。 だが、私は卑しい人間なので純粋に他人の幸せのために働けない。 エゴイスト。 自分のことを勘定に入れてしまう。 私が学校の試験で上位に入ることで、誰かを確実に蹴落としている。 物欲などもそれ相当にあり、欲しいものを買ってしまう。 楽したい気持ちもかなりあり、人の幸せばかりを考えられない。 他人があってこそはじめて自己があるというのに、人間というのは随分身勝手な生き物だと思う。 100円の募金で救われる命があると知りながら、己のくだらない道楽のためにお金を消費したり、食欲を満たすために高級な食べ物を求めたり、他人より素敵に思われたいなどと化けの皮を購入したりする。 人間というのはクリスマスパーティや誕生パーティなどといって、くだらないグッズにお金を使い、命の募金をしない。 人間というのはこういう愚かな生き物なのだから、突き詰めて考えたら必ず自己否定に辿り着く。 必ずダメな自分を知らずにはいられない。 何も知らなかったら、自己否定にはならないと思う。 後天的知識によって、かなり苦しめられる。 世の中を知るほど、自分の存在を否定せずにはいられない。 自己否定が自殺を生むと考えるならば、他殺というのは自己を認めてもらえない気持ちから起こるものだろうか。 こんなことを書いていると怪しき人物、要注意と思われてしまうが私はとりあえず「人生、自殺と他殺をしなければ合格」という考えに基づいて生きている。 エゴイストな私は存在する価値のない人間なのだが、自殺をするわけにはいかないので、なるべく世の中に迷惑をかけないよう生きていこうと思っている。 迷惑をかけないのは最低限するべきことなので、何かしら役に立ちたいと思う。 役に立とうとしても真には役に立てないわけで、役に立つというのは単なる自己満足にすぎない。 必死で自己肯定するために善きことをしているつもりになる。 以前、小さい子に肩車をしてあげたらすごく喜ばれたことがある。 小さい子は何度も私に肩車をせがむ。 この子の喜ぶ顔が見たいという気持ちもあったが、こうして自分が必要とされていることを喜ぶ気持ちのほうが強かった。 肩車して喜ばれることで、自己満足しているのだと思った。 人助けや人の役に立っていると自分で思えることをすることで自己を見出す生き方をしてみようと思う。 これは結局は偽善に過ぎないとわかりきっているのだが、こうでもしてなんとか自己を見出さないと自己否定に陥ってしまい生きてはいけない。 だから私はなるべく、悩みの相談や不安の解消であったり、人の役に立っていると思える仕事がしたい。 そうすることが私の生きる道なのだと思う。 PR COMMENT COMMENT FORM
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